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2012年01月24日

がんじい「トロントロン軽トラ市」で考えた



トロントロン軽トラ市の魅力は、軽トラックの荷台に朝どれの農産物や魚介類、地元の手づくり作家の作品などが並べられ、販売されていることと、そこに集まる多くの人々の陽気で活気に満ちた表情である。そして、迫力満点の売り場のおばちゃんたち、それを手伝う健気で元気な少年、ほほえましく愛らしい家族連れの姿なども好ましく、見ていて飽きることがない。




軽トラ市を歩いていて、がんじいは高知市の名物「日曜市」と伊賀上野の「上野天神祭」のことを思い出したものだ。高知の日曜市に行ったのは、今から30年近く前のことだが、がんじいはその頃、湯布院町(現・由布市湯布院町)の旧道「湯の坪街道」沿いの空家を借りて古い道具類を商う小さな店を出していた。まだ湯布院の町が有名になる前のことだったから、人通りも少なく、一週間も雨の日が続くと、通りの商店主などは表に出てきて、空を見上げ、「客が来んなあ・・・」とため息をつくような時代であった。古伊万里の食器類や古布、古箪笥などを並べた店も、当時はそのような品はまだ買い手も少なく暇だったから、営業と買出し(田舎廻りの発掘作業)と取材を兼ねた旅に出かけていた。ふとした縁で、高知の日曜市を取り仕切るという「香具師(やし)」の親分と知り合いになり、その家を訪ね、ついでに親分の露天の隣で店開きをさせてもらったのである。
高知市の「日曜市」は、高知城のすぐ下、追手門から東に伸びる市街へかけて約1.3kmにわたり、毎週日曜日に開かれており、300年の歴史を有するという。戦国末期に織田信長が開いた「楽市楽座」の流れを汲む最も古い市場のひとつであろう。このような市場を取り仕切るのは、昔から、香具師のネットワークであった。伊賀上野(現・伊賀市)の豪族・服部氏が行なった「黒党祭り」やその影響下にあると思われる「伊賀上野天神祭・鬼行列」などをみれば、「忍者」にまでその組織網が広がっていたとみることができるであろう(伊賀上野の天神祭と伊賀忍者の頭領・服部氏、香具師の関係などは、「森の空想ミュージアム」のホームページ「忍者と仮面」の項に詳述)。
現在行なわれている各地の市場などは自治体や市民団体、有志の実行委員会などの運営によるものが多く、どれもが香具師や忍者の影響下にあるわけではないが、年季を経たネットワークは露天商の出る市場などにはいまだに一定の影響力は有していると考えられる。がんじいが飛び入りで高知の日曜市に出店できたのも、それに類する経緯を経たものであった。
その日、市場は盛大な賑わいをみせていたが、器や古布、現代クラフトやガラスなどを並べたがんじいの店では、何も売れなかった。それに引き換え、親分の店には、次々に客が訪れ、番台一枚に積み上げられた品は堅実な売れ行きを見せていた。その品物というのは、なんと、「ハブの黒焼き」と称する粉末であった。そして、それを買ってゆくのは、いわゆる熟女と呼ばれる年代の女性たちで、それは、ご亭主または恋人との間で用いられる秘薬のようであった。がんじいは不思議でたまらず、ついに親分に「それは本当に効くのですか?」と無遠慮な質問をぶつけてみた。すると親分は、「ふふん」と鼻で笑い、否定も肯定もしない玄妙な態度を示しただけであった。
売れない荷を前に、一日香具師の親分の商いを見ていて学んだことがある。それは、さりげなく客に身体を寄せて行く間合いとか、世間話をしていて、何気なく「○○ちゃんによろしくな」と知り合いらしいその女性の相方の名を囁いたり、若い奥さん風の女性の横で「今夜は夢の中だな」と呟いたりする呼吸などであった。閉店時間が迫った頃、にわか雨がきた。がんじいもそれをきっかけに、親分の呼吸を真似て半額処分で荷をさばき、旅費程度の売り上げはなんとか稼いで、高知の城下を後にしたのである。



話が大いにそれたが、この川南町「トロントロン軽トラ市」は、最初に述べたように町の商工会などが主催する現代のバザールであり、相次いだ災害や商店街衰退、過疎などに悩む地域の再生への手がかりとなるべき要素を秘めた催事である。
がんじいは、軽トラ市の賑わいの中を歩いていて、アジアのバザールや日本の古い形態の市場、現代の青空市などについて思いを馳せたのであるが、この日に限っていえば、賑わいに反して、地元の商店街と出展者の関係性が薄く、せっかくの人出が各商店の集客に反映されていないこと、路地や空き地に客が導引されていないこと、クラフトやアート関連の出展が少ないことなどに気付き、「惜しいな」という気がしたのである。今後、このような点に留意し、対応が図られれば、ますます進展が期待される企画である。高千穂や西米良でエコミュージアム計画にかかわり、先日は「九州アートネットワーク車座会議」でも刺激を受けた身として、いろいろなことを考えた一日だったが、ここでは多くを語らず、現地の取り組みと展開を楽しみに待つことにしよう。

         


Posted by 友愛社 at 08:57Comments(0)がんじい

2012年01月18日

がんじい「トロントロン軽トラ市」を歩いた

*茶臼原自然芸術館は次回1月22日のトロントロン軽トラ市に出展します。

川南町「トロントロン軽トラ市」にて



*前回の続き

軽トラックの荷台を利用した店開きがまずまずのすべり出しを見せたのを見届けて、見物に出かけた。私たち「茶臼原自然芸術館」の出展場所はゆるやかな坂道の北端に位置していたので、朝8時の開店から11時15分の閉店までの3時間余りの時間に1万人以上の客が集まるという、軽トラ市の全貌は見通せなかったのだ。午前9時。すでに数千人の人出で賑わっている通りを歩いた。
まず、目を引くのは、なんといっても食べ物である。日向灘沿岸の漁村で作られている「鯖鮨」「鯵鮨」などの「魚鮨(さかなずし)」。もともと漁村の女性たちの手で作られていたものだが、近年、「道の駅」や「港の駅」でも売り出され、人気商品となった。鯖や鯵といった定番といえる素材の他に、小鯛、鰯、太刀魚、鮗(コノシロ)などの小魚があって嬉しい。そしてそれらの魚たちは、造り手たちの工夫と技によってそれぞれ独自の味わいを出している。素材が新鮮であることはいうまでもない。モノによっては、今朝まで日向灘を泳いでいた魚かもしれない。天然の生牡蠣を焼いている店もある。日向灘沿岸の遠浅の岩場に、椎葉や米良、尾鈴山系などの山々から注ぐ真水が混じって、とびきり上質の牡蠣が育つのだ。鯵鮨、貝と海草の混ぜご飯、鰻飯などを続けざまに買った。鰻もまた、稚魚の遡上する川を持つ日向灘沿岸は養殖業も盛んで、名物のひとつに数えられるのだ。これで今日の昼飯は確保。門川漁港揚がりの太刀魚の干物と鯖の一夜干しを買って、今夜のビールのつまみに。近隣の農家から運ばれてくる質量ともに圧巻の農産物、肉料理、焼酎などはここに記すまでもないだろう。




刃物を並べているおじさんがいた。刃物といっても、台所用の包丁や鉈、鎌などの農具を売る店ではなく、使い古された鉈、斧、金槌、釘抜き、細刃のナイフ類などである。山仕事の道具や、猪解体用のナイフなども見受けられた。釣り道具も並べられていた。いわゆるアンティークショップではなく、このおじさんは、「男の遊び道具」としてこれらの刃物をコレクションし、ここでは「売る」という行為よりも「遊び仲間」と「つながる」ことを主目的としているような感じであった。
思わず「欲しい」と思った鉈があった。長さ40センチほどもある木の柄は茶褐色に古びて深い味を出し、刃との結合部分は丈夫な草の糸(おそらく山地の崖に生える「菅=スゲ」であろう)で巻かれ、補強されている。その「巻き」が一点のアート作品を見るようである。刃の部分は長い年月をかけて使い込まれ、研がれて磨耗し、刃が内側に湾曲しているほどである。そのカーブもまた美しく、鋭利な刃を収めるための木製の鞘も心憎い。



幸か不幸か、私はこの日、財布を持っていなかった。当節、明確な目的もなしに刃物を買い込んだり集めたりしているとあらぬ疑いをかけられる恐れがある。物騒な、信じられないような通り魔事件などが頻発しているではないか。そのこととは無関係だが、(今日は「売る日」であって「買う日」ではない)と、私は固く自分を戒めて、あえて財布を置き、ホケットに小銭だけを突っ込んで出かけてきたのであった。それで、この鉈をあきらめて引き返したが、この軽トラ市は、タイの奥地の村のバザール、釜山の国際市場や那覇の公設市場、高知の日曜市などを思い出させた。規模や年季などはまだそれらに及ばないが、軽トラックの荷台に種々の物産や商品が並ぶというユニークさは群を抜いている。今年は、東日本大震災の復興支援のモデルケースとして出展されたともいう。地域再生の大きなヒントを秘めている企画といえよう。
わが茶臼原自然芸術館のスタッフも、交代で探索に出かけたが、各々、お気に入りのスポットを見つけたと見え、市場の賑わいの中に消えたまま、しばらく帰って来ないのであった。


       


Posted by 友愛社 at 08:57Comments(0)がんじい

2011年12月28日

がんじい「トロントロン軽トラ市」に行く

この冬一番という寒波が襲来し、南国宮崎・茶臼原の台地を霜が真っ白に化粧した朝、早起きをして川南町「トロントロン軽トラ市」に、がんじいも初めて参加した。「石井記念友愛社・茶臼原自然芸術館」の作品を展示・販売する日なのである。

この軽妙な名称を持つ市場は、宮崎県川南町の中心商店街の中央を貫く道路を車両進入禁止区域とし、そこに農家や漁業の人たちや近隣の工芸作家、手づくり食品の造り手たちなどが、それぞれ軽トラックを持ち込んで、その荷台を屋台のごとくに利用して、様々な物産の販売を行なうという、まことに痛快な企画である。
昨日まで人っ子いなかったように思える寂れた古い町並みに、ある朝突然、軽トラックと人と物とがあふれ、アジアのバザールのような大いなる賑わいを見せる通りに変貌する。その活気あふれる現場に踏み込む前に、川南町の沿革とその名称の由来となった、「トロントロン」という地名について検証しておこう。



川南町は、宮崎県のほぼ中央部の海岸部に位置し、東は日向灘・太平洋、西は若山牧水が望郷の思いをこめて歌った尾鈴山系の山々を望む、人口約1万7,000人の町である。宮崎市から国道10号線を北へ約1時間、電車で約40分の距離にある。広大な台地状の平地が広がり、農畜産、漁業を基幹産業とする。第二次大戦後、軍用地であったこの広大な台地は解放され、全国から開拓者たちが入植、発展を遂げ、中心部には商店街も形成されて、商工業も拡大を続けてきた。しかしながら、全国的な中心商店街衰退の波はここも例外なく襲い、バブル崩壊、その後の大幅な規制緩和による中・大型店の地方への進出ラッシュ等により商工業は衰退した。農畜産業も輸入が拡大し価格が下落、農家はも多頭化による経営改善を余儀なくされ、苦戦が続いているという。

 

この軽トラ市が開催される川南町の中心部トロントロンという地名は、尾鈴山系を源とする名貫川と小丸川に挟まれたこの地域が、古来、小滝や伏流水の湧き出る場所が多く、その水音が辺り一帯や街道脇の並木道に反響したことから付いたとする説が有力である。町を貫く道は、中世以降、日向と豊後を結ぶ主要な街道として栄え、ゆるやかな坂道には松・杉・楠などの並木が涼しい木陰を作っていたという。このトロントロンという地名については「とろとろと上り下りするゆるやかな坂道」説など、他にもいくつかの説があるが、街道を行き交う人々の耳に響いた水音がその地名の起源だとすれば大変懐かしく、奥ゆかしい地名である。ちなみに宮崎県には穏やかな内湾の水音が優しい延岡市土々呂(ととろ)漁港があり、美郷町北郷区を貫流する五十鈴川の「轟(とどろ)の滝」の他、小さな小滝を轟滝、あるいは轟の淵などと呼ぶと呼ぶ例もあって、水音と「トトロ」「トロントロン」の関連を想起させる。



さて、このトロントロンという名の坂道で軽トラ市が始まったのは、四年前(平成18年)のことである。当初は軽トラック60台余りの参加だったが、年々話題を呼び、昨年(2010年)口蹄疫発生の折にはその中心地であったことから、半年間開催を自粛したが、その後、再開し、現在は参加軽トラック100台以上、来客は一万人を越える地域イベントとして活況を呈しているのである。



茶臼原自然芸術館が参加したのは、今年(2011年)の春から。現地のお菓子屋さんとの共同出展という形で実現した。以後、毎月第四日曜の開催日に毎回出店し、好評を得ているのである。
この日は、寒い日だったから、草木染め手織りのマフラーを主に展示した。まず軽トラ横のスペースに張られたテントの前面のマネキンの首にマフラーを巻き、テントから軽トラの荷台の上部に紐を張ってそれにシルクのマフラーを下げた。ゆるやかな風にマフラーが翻り、朝日が草木染めの色を照らし始めた時、すぐに二枚のマフラーが売れた。野天での企画の折の状況判断は、戦場における武将あるいは軍師のそれのように、機微詳細を極めたものでなければならぬ。今日の出足は好調であった。

*続きは次回。





         


Posted by 友愛社 at 09:45Comments(0)がんじい

2010年12月09日

麦踏みの風景 がんじいのジビエ手帖15

[がんじいのジビエ手帖15 麦踏みの風景]

 
一晩中、強い風が吹いて、森の木の葉が散ってしまった。
茶臼原自然芸術館の裏の「じゅうじ農園」の上に広がる空も、一層、青さを増した。
農園では、麦踏みが始まった。
身体に傷がいをもつ通所者の皆さんの農作業も、
堂に入ったものとなった。

正直に白状すると、がんじいは、麦踏みは苦手じゃった。
子どもの頃、無限の広がりを見せるようにさえ思われる麦畑で、
村じゅうの子どもたちが楽しく遊ぶ声を遠くに聞きながら、黙々と麦を踏んでく。
その孤独感と、寒さと、いつ果てるともしれない労働の辛苦が
小さな体と心を痛めつけたのである。

それからおよそ半世紀の時間を経て、久しぶりに見る麦踏みの風景はなつかしい。
淡い郷愁とともに、いつの間にか消えてしまった麦を育て、食べる習慣が、
じつは、日本列島の古層に横たわる食習慣であったことを知ったことも、
少年期の記憶を払拭して麦を踏む景色を愛でるようになった要素の一つであろう。
高千穂神楽には、「五穀」という演目があって、稲や豆、稗などともに麦の神が降臨し、
美しい舞を舞う。
記紀神話にも麦の生産を語る段がある。

麦踏みが始まる頃、
山が、土中深く蓄えた自然薯を一日がかりで掘り、
擂り鉢で丹念に擦ってとろろ汁に仕立て、
麦飯にかけて食べる。
それに「鹿刺し」が添えられれば、
この冬の、まずは一番手を飾る御馳走となる。







  


Posted by 友愛社 at 09:51Comments(0)がんじい

2010年06月10日

鶏と猫と烏と梟の森 [がんじいの独語帖2] 

鶏と猫と烏と梟の森 [がんじいの独語帖2]
 
     

 生ごみの入ったバケツを提げて、森へ行く。「茶臼原自然芸術館」建設のための杉の木を切り出し、その後、山桜と山桑と朴の木を植樹した森である。
 この森の杉は、石井十次がこの地の開拓を始めたころ、同時期に入植した人たちと一緒に植えたものだ。それからちょうど百年が経過し、次の施設を作るための貴重な資材となった。百年の年輪を刻んだ杉は見事で、自然芸術館の建物の骨組みや柱や壁面、食堂のテーブルなどに利用されて来館者や利用者の目を楽しませ、居心地の良い空間を創り出すことに成功している。
 バケツを提げたがんじいの後ろを、五羽の鶏が、コツコ、コッコと鳴きながらついて来る。時々、決闘ごっこを始めるのもいるが、もともと親子・兄弟の間柄なので、血みどろのケンカに発展することはない。雌が死んでしまって、雄ばかりになった群れの、エネルギーの発散の仕方のひとつであろう。
 鶏たちの目的は、がんじいが森の木立の中にぶちまけるバケツの中身だ。できるだけ無農薬・有機農法・自然栽培・自然採集などの食材を選んだがんじいの家の残飯は、彼らにとっては「御馳走」なのだ。
 鶏の一群の、後になり先になり、野良猫が数匹、ついて来る。この近辺で生まれ、育って野生化した猫たちは、子猫の時に鶏に追い回された体験をもつので、成長しても鶏に頭があがらない。鶏を「獲物」だと認識する教育課程が欠落したのだ。猫たちの狙いは、鶏が食べ残す魚の骨や煮しめの味がしみ込んだ野菜類、たまに出る猪や鹿などの骨付き肉の断片である。鶏に先んじてさっと獲物に飛びつき、すばやく持ち去る猛者もいる。
 鶏と猫が争奪戦を展開する現場に、二羽の烏が割り込んでくる。この森のどこかに巣を持っていて、この極上の餌を横取りする瞬間を狙っているようだ。烏を鶏が追い払い、その隙に猫が食物を得るが、烏はすぐに舞いもどってきて、なにがしかの獲物をくわえて飛び去る。
 夜には、ホー、ホーと梟の鳴き声が聞こえる。アオバズクが、残滓に集まる鼠を狙っているのだろう。秋には、鷹が遠い米良の山脈からやってきて、上空を飛び巡る。がんじいのバケツの中身は、こうして動物たちの食物連鎖と並行しながら、森の植物の栄養となるのだ。これが、山で育った男の食べ物の始末の仕方であり、「里山」の育て方だ。
 下草を刈り、小枝や小灌木を払って、里山の森にとって必要な樹種を残しながら育てあげる。ここに住み始めた十年前に比べると、山桜は大きく成長し、弱っていた染井吉野も野生種と見紛うほどに逞しくなり、見事な花を咲かせるようになった。米良の山から移植した楮も、採集可能な群落を形成した。山桜の枝からは、春先に染料が得られる。蕾を一杯に着けた枝をいただき、絹糸を染めるのだ。山桑の繊維からも糸が採れるし、その実からはジャムができる。朴の葉に味噌を塗り、ヤマメを包み込んで焼いた「ヤマメの朴葉味噌焼き」も絶品であった。
樹下に立ち、五年後、十年後、さらに百年後の森を空想しながら、木の間越しに漏れてくる太陽の光を見上げる時間こそ、至上の一刻である。
   


Posted by 友愛社 at 09:46Comments(0)がんじい

2010年06月04日

竹の子と蕗と小綬鶏の煮付け [がんじいのジビエ手帖14] 

竹の子と蕗と小綬鶏の煮付け [がんじいのジビエ手帖14]
 
     

梅雨入り前のからりと晴れた一日。
がんじいは老母(この春で82才になった)を連れて竹林に向かった。
筍(孟宗)の季節が終わると、その名のとおり勢いよく伸び出てくる破竹(ハチク)、根元部分の節がぐるぐる巻きになった小さな竹・胡参竹(コサンチク)、竹細工の素材として重用される真竹(マダケ)などの「竹の子」が次々に芽を出してくる。春から初夏へかけて、食卓は数々の竹の子料理で彩られるのである。
竹の子採りは、若いころ山で過ごした経験をもつ老母の楽しみのひとつである。竹林は、食糧の不足した冬を乗り切った後、家族の食欲と味覚を満足させてくれる素材の一等の供給地であったありがたさと、のどかな山村の生活の記憶とがよみがえり、ひとときの安息と癒しを与えてくれる場所なのであろう。
竹林の入り口に、一羽の鳥が落ちていた。コジュケイ(小綬鶏)であった。直前に、車にぶつかるか、あるいは鷹に襲われるかして、墜落死したものらしかった。がんじいと老母とは、顔を見合わせ、ただちに「頂く」という決断をした。猟師の妻でもあった母は、すぐに「竹の子と野鳥の煮付け」のイメージが浮かんだのだ。コジュケイは、小型のキジ類で、鶏よりも小さく鳩よりも少し大きい。叢林や藪の中に棲息し、チョットコイ、チョットコイの鳴き声で親しまれる「里山」の鳥である。正真正銘の「地鶏」ともいうべきこの鳥が、焼いて良し、煮て良し、ソバやウドンのダシにしてもまた良しの一級の食材なのだ。
思いがけぬ山の神様からの贈り物があった日、竹林の中からも、見事な竹の子が得られた。さらに、野生の蕗(フキ)の群生も見つかった。
早速、持ちかえり、中庭に拵えてある石製の竈で火を焚き、山の媼は鳥の毛をむしりはじめた。中庭と竈と家を抱くようにそびえる楠の大木に向かって、青い煙が立ち昇り、良い香りとともに樹間を漂い流れていった。
調理法については紙数を要しない。竹の子を好みの大きさに切り、コジュケイはぶつ切りにし、フキは丹念に皮を剥いで4~5センチほどの長さに切りそろえて、一緒に醤油とミリン少々、酒と赤トウガラシを加えて煮込む。
夕刻、里山料理が出来上がった。久方ぶりの「猟師の味」には、きりりと冷やした日本酒が合った。

     
       
茶臼原自然芸術館では、この竹林を整備しながら、竹の子を採集し、茹でて出荷しています。作業を重ねることで、「楮」の群生地を「保護・育林」する効果があります。美しい竹林・里山の森・素材の採集地などは互いに関連し合って維持されるのです。
    


Posted by 友愛社 at 09:45Comments(0)がんじい

2010年05月28日

森のホタル

[がんじいの独語帖 1]  森のホタル
 


 発生から一カ月が経過した家畜の伝染病「口蹄疫」は、終息に向かわず、むしろ、じわり、と拡大の傾向をみせている。農家や関係者の心配、心痛を思うと、胸が痛む。
 影響は、周辺にも及びはじめている。道路の封鎖や車の消毒は強化され、各種の企画・イベント等の中止は相次ぎ、農産物の出荷自粛、外出自粛なども始まっている。生産や物流の現場も、一般家庭も、ただならぬ緊張感を漂わせながら、経緯を見守っている。
 個人も、周辺の状況と無縁ではいられない。買い物に出かける回数を減らしたり、帰宅時には消毒をしたり、ささやかな寄付活動に参加したりしながら、冷害の年に農地を歩き回った宮沢賢治のように、空を見上げてため息をつき、静かに、息をひそめて暮らしているのである。
 出かける回数が減った分、「九州民俗仮面美術館」の周辺の草刈りや、木立の整備などに手が回るようになった。太陽の光に満ち溢れた宮崎の地では、畑の縁も垣根も広場も里山も、手入れを怠るとたちまち草藪となり、密林の状態へと発展してゆく。快適な自然環境は、絶え間ない自然への働きかけによってはじめて維持されるのである。
 夕食後、下草刈りを終えた森を散歩した。降り続いていた雨も止み、二日ほど吹いた強い風も収まって、淡い藍色が西の空にわずかに残る日暮れ時であった。薄墨色の森の闇から、チカチカと光るものが見え、その光は木立の中を漂い出て、森に囲まれた広場まで来た。
「ヒメボタル」であった。
 ヒメボタルは「森のホタル」とも呼ばれる陸生のホタルで、杉林や広葉樹の林の中などに棲む。小川や田の水路などを棲息地とするゲンジボタルやヘイケボタルに比べてやや小さく、明滅の速度がはやい。雌は草や木の根方に産卵し、移動範囲が狭いが、雄はふわりと漂うように飛ぶ。人里から遠い森に棲むため、知名度も低く、謎のホタルともいわれるが、ホタルの世界的な分布は陸生のもののほうが多いというから、「謎」でも「まぼろし」でもなくれっきとしたホタルの仲間なのである。
 線香花火の消え際のような、はかない光の明滅が、森をひととき幻想的な空間に変えた。その森から流れ出てきた数匹のホタルが、仮面展示室の窓辺に至り、古いガラス窓に光を反射させた。
   


Posted by 友愛社 at 15:12Comments(0)がんじい

2010年05月14日

仮面詩集2 「行き合い谷」 祈りの丘空想ギャラリーの展示から

仮面詩集2 
 

          
[行き合い谷]

二つの山の向こうに
二つの谷がある。

・・・まむし谷

と老人はひとつの谷の名を言い

・・・逢引き谷

と恋人たちは他の一つの谷の名を呼ぶ。

郭公の声が響きあう
二つの山と二つの谷。

まむし谷を
白い幣を捧げ持ち、
黒い仮面を着けた男が登り、
逢引き谷を
赤い幣を持ち
白い仮面を着けた女が下る。
二神はつねにすれ違い
行き会うことはないが、
ただ
一年に一度
霜月満月の祭りの夜
翁神が現れて
代と赤の幣を交差させた舞を舞う
その夜だけ、
出会うという。
  


Posted by 友愛社 at 09:10Comments(0)がんじい

2010年05月06日

月下の仮面祭 祈りの丘空想ギャラリーの展示から2

仮面詩集1
月下の仮面祭



月が出た。
黒々とした山塊の
奥深く抱かれた村の
神社では、年に一度の
神楽が開催されていた。
その御神屋が設えられた境内の
斜め上方の
黒い山嶺を光らせて
ぽっかりと銀色の月が
浮かんだのである。

女が一人
神庭から踊り出て
月に向かって手を広げ、
その手をひらひらと宙に漂わせながら
神社の裏山へと続く
細道に消えた。
神楽の囃子に浮かれたのか
幻月に誘われたのか
男の呼ぶ声が
遠い
山の闇から聞こえたのかは
定かでない。

―今宵ひと夜はお許しなされ
   ひとのかかでも娘でも

鹿、猪、狐、
鬼、水神、山姥、黒い翁
月の光に照らされた
村に
神楽の音楽が流れ、
過激なセリ歌が歌われ
不思議な面相の
仮面神が次々と登場し、
幽玄の舞を舞う。
ピッ、ヒョォォォ・・・・・
神楽の笛に
雄鹿が雌鹿を呼ぶ声が混じる。


女が
一夜だけ
行方知れずとなるのは、
こんな晩だ。
 

  


Posted by 友愛社 at 11:34Comments(0)がんじい

2010年04月27日

神楽と仮面1 祈りの丘空想ギャラリーの展示から

  
「神楽と仮面」展
祈りの丘空想ギャラリー
会期2010年4月25日~6月30日
入場無料

 

 茶臼原の大地が、輝くばかりの緑に包まれました。
 緑の風を受けて静かに佇む「祈りの丘空想ギャラリー」では、茶臼原自然芸術館の指導員・高見乾司が、2009年3月から一年間にわたり、宮崎日日新聞に連載した「神楽と仮面」の連載記事コピーと写真を中心に、高見の20年にわたる神楽取材の旅で生まれた「仮面詩集(詩と写真の組み合わせ)」の一部を展示しています。
 神楽は、記紀神話を軸に、「大和王権=日本という国家」の創世の物語を語りながら、土地神・山の物語などが織りこまれながら展開してゆく演劇であり、壮大な叙事詩です。仮面とエッセイ・詩・写真が織りなす不思議な空間で、異次元の世界をお楽しみ下さい。

*「神楽と仮面」の連載文は「森の空想ミュージアム」のホームページに掲載しています。
  


Posted by 友愛社 at 14:42Comments(0)がんじい

2010年04月09日

筍と雉肉の合わせ煮

がんじいのジビエ手帖13 筍と雉肉の合わせ煮



 茶臼原の台地へと続く友愛社の森には竹林があって、他の植物を駆逐しながら徐々にその勢力範囲を拡大し、その先端は人家の庭先まで迫ってきて、油断すると倉庫の中や床下にまで筍が顔を出す始末である。孟宗、真竹、破竹、小三竹などその種類も多彩で、ついには竹林の整備と余分な竹類の駆除を目的とした竹炭を焼くための炭窯を築くほどの事態に立ち至ったのである。

 だが、春先に、真っ先に顔を出してくる筍を掘りに、鍬を担いで出かける気分は格別である。がんじいの育った山の村にも立派な竹林があり、冬越しの食糧が底をつく頃、目星を付けておいた落ち葉の膨らみ加減を確かめながら出かけたものだ。少しだけ地面から頭を出した筍を掘りだす瞬間がうれしい。鍬を打ちおろす気合いと、ざくっ、と筍が竹根から剥がれる感触とがたまらない。これで飢えから解放されるという安心感も混在している。
 それを持ちかえり、すぐに調理すれば、面倒なあく抜きなどをしなくても美味しく食べられる。イリコだしに醤油だけの単純な味付けで十分だが、冷凍庫に雉か山鳥(入手できなければ地鶏、百歩譲って若鶏のぶつ切りでもよろしい)の肉が少しだけ残っていれば、それを一緒に入れて煮つける。鳥の味と筍の風味が響き合い、春一番の御馳走である。
 
 がんじいのふるい友人に野々下一幸氏という竹職人がおった。彼は、竹のクラフトでは一時代を築いた男だったが、無類の音楽好きで、一日中、竹を削りながらクラシック音楽を聴いていた。タンノイのスピーカーから流れてくるのは、時に重厚なシンフォニーだったり、ベートーヴェンのピアノトリオや室内楽の小品だったりした。シューベルトの「鱒」も渓流釣りを愛した彼の好んだ曲だった。彼の作る竹籠は、「岩のようだ」と形容されたほど頑丈だったし、当時住んでいた由布院の有名旅館で使われた青竹の箸は、繊細さをあわせ持った美しい箸でった。春になると、彼はさまざまな筍料理を楽しんだ。俺は竹の「子」だからな、と笑いながら、掘りたての筍を生で食べることさえあった。それもまた、彼にとっては春の森のご馳走であった。
 残念ながら、野々下氏は、体力の衰えによる仕事の限界を悟ったとして、自ら命を絶ったが、竹針でレコードをまわすほど、竹を愛し、竹と生きた見事な男であった。筍と雉肉の合わせ煮は、ありし日のがんじいと野々下一幸氏の食卓を飾った、ひことまである。

 茶臼原自然芸術館では、友愛社の森の筍を掘り、大鍋で茹でて包装し、出荷している。今年は中国産の筍が入荷不足ということで、良く売れているらしい。茹でたての筍は、そのまま食べてもほのかな甘みがあり、美味い。庭先の山椒の葉を刻みこんだ酢味噌和えも絶品。要するに、筍を食べれば、竹と竹林は程よく保たれて、眺めてもよし、食してもよし、の有益植物となるのである。

 茶臼原自然芸術館の筍は、木城町「木城温泉館ゆらら」に隣接する物産館「菜っ葉や」と宮崎市平和台公園の「ひむか村の宝箱」で販売中。
   


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2010年03月17日

神楽の夜の猪雑炊 がんじいのジビエ手帖12

[がんじいのジビエ手帖12 神楽の夜の猪雑炊]



 遠来の客を迎えての猪鍋の仕上げは、猪雑炊(ししぞうすい)である。
 この夜は、良い素材が入手できたため、奮発して「大根干し‘イカンテ’と猪肉の脂身の合わせ煮」から始めて、「大根と骨付き肉の煮込み塩味」、「味噌煮込み鍋」、「ロースの焼肉」という猪肉料理のフルコースと呼べるメニューで組み立てたが、最後にうす味の「猪雑炊」加えたのである。
 まず、鍋の底に残ったスープに、あらかじめ取り置きしておいた「大根・骨付き肉の煮込み」の煮汁を加え、ご飯を入れて煮込む。ご飯がやわらかくなってきたころ、細かく刻んだ大葱とサイコロに切った豆腐を入れ、少し煮込む。ひと吹きした頃合いを見計らって、火を止め、卵を入れてかき混ぜれば出来上がり。濃厚な猪鍋のあとに、このあっさりとした味の雑炊はまた格別なのである。

 夜神楽の見物は、終夜に及ぶが、多くの神楽で、夜食が振るわれる。神と人とが饗応し、交歓する場が「直会(おならい)」という場であるから、ありがたく、敬虔な祈りにも似た気持ちを抱きながらいただく。その内容は、猪汁などが出る盛大なものから、一汁一菜程度の質素なものまでさまざまである。所によっては、舞人の夜食以外の食事は出ない場合もあるので、途中の「道の駅」などで一晩夜明かしする分の食料を買い込んでおき、星空の下で食べることもある。いずれも、神楽探訪の愉しみのひとつである。
 夜半、疲れと眠気と空腹感に襲われ、思わず四辺を見回す頃、ここぞとばかりに猪雑炊が
運ばれて来ることがある。このありがたさは、なにものにも代え難い。その温かさと、塩味と、猪肉の野生の香りが、五感を刺激し、再び神楽を見続ける気力と活力を呼び覚ましてくれるのである。
 猪雑炊の味には、塩味や味噌味、醤油味などその土地ならではの味付けと味わいがある。 西都市・銀鏡(しろみ)神楽では、神楽三十一番が夜を徹して舞い終えられた後、古式の猪狩の様子を再現する番付である式三十二番「シシトギリ」がある。狩人に扮した爺と婆が、弓矢を持ち、山に入り、猪を追いたて、見事に仕留める演目である。狂言的に演じられるこの神楽は、演者の当意即妙のアドリブで笑わせ、猪に追われて樹上に逃げる爺婆の様子が爆笑を誘うが、全体を通じては、狩場の持ち場を決めたり、方位を占ったりしながら猪を追い込んでゆく古式の狩猟法の再現であり、「神事」である。がんじいは、始めてこの神楽を見た時(今から三十年も前のこと)には、この爺と婆が、故郷の村で伝来の狩法を受け継いできた自分の父親や祖父の姿に重複し、思わず目頭を熱くしたものである。
 シシトギリに続いて式三十三番「神送り」が終了すると、無事神楽の全演目が終わり、名物の猪雑炊が出る。前夜、奉納され、神楽の祭壇に飾られた猪頭が撰下され、調理されるのだが、塩味だけのこの猪雑炊もまた天下一品と呼べる食物である。   


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2010年01月26日

神楽の場で貰った猪肉を食べた

[がんじいのジビエ手帖10 神楽の場で貰った猪肉を食べた]
 昨年の暮れ、西米良村・村所神楽の最終演目「シシトギリ」の場面の途中で、村の人から頂戴した猪肉。これこそ、山の神様からの授かりものであるから、敬い、謹んで喰わねばならぬ。
 料理法は、オーソドックスな狩人料理ともいうべき「味噌煮込み」であろう。

             

 がんじいがまだ子供の頃、隣村に「銀さん」と呼ばれる腕利きの猟師がおった。銀さんは、「ホシ」と「ヤマ」という二匹の猟犬を連れ、旧式の単発銃を担いで、一人で山に入った。ホシは黒毛に白い斑点のある剽悍な犬で、ヤマは茶褐色の剛直な犬であった。このホシが巧妙に猪を追い立て、ヤマが、攻撃を仕掛けては引き、引いてはまた仕掛けるという技を繰り出して、獲物を追いつめてゆく。そこへ、犬とほとんど変わらぬ速度で山を走って駆けつけた銀さんが、ズドン、と一発、仕留めるのである。この狩猟法で、銀さんは、ひと冬に20頭から30頭の猪を獲った。犬を10匹以上も動員した数人の狩人集団が一シーズンに狩る猪はせいぜい5頭から10頭であるから、銀さんが猪獲り名人の名をほしいままににしたのは当然のことであった。銀さんは、山に入る前には山の神に祈り、獲物が獲れると山の神に捧げては、また祈った。敬虔な銀さんの信仰が、また山の神の恵みをもたらすのであった。

 以下は銀さん仕込みの猪料理。
 まず、酒を多めに入れた水を沸騰させ、沸騰直前にぶつ切りの猪肉を入れる。煮たってくると、大量の蒸気とアルコール分とが蒸発する。これにより獣特有の強い臭いが消えるのである。その肉を一度水で丹念に洗って(ここが銀さん直伝の秘訣じゃ)、アクの混じった煮汁は捨てる。そして新たに水と肉をたっぷり入れて、あとは普通の煮込み料理と同じく、とろ火で煮込んでゆく。この時点でぶつ切りにした大根を入れ、牛蒡、人参、蒟蒻と味噌(やや少なめに)を加える。すりおろしの生姜を臭い消しに入れ、真っ赤な唐辛子を二本ほど刻み込んでおくことも忘れずに。ここから一時間ほど煮込んで、仕上げの味噌を入れて出来上がり。この最後に入れる味噌は煮たてないこと。味噌の香りが、新鮮な野菜の甘み、猪肉の味などと混交し、濃厚な狩人料理の完成。好みにより、火を止める直前に豆腐や葱、青菜などを入れてもよろしい。
 さて、ビールで乾杯。続けて地元の芋焼酎を杯に満たし、さらに一杯。 

           

 ところで、がんじいしは、「じゅうじ農園」採れの大根はもちろん、人参を大量に使う。独特の甘みと柔らかさが料理全体を引き立てるからである。この甘みは、化学肥料を使わず、良い肥料を使って育てたこと、寒さが加わってきたことなどによるものらしい。土づくりは有機栽培の畑としては、まだまだ初期の段階だというが、このことは特筆しておいてもよい。
 ここで思い出したが、大根干し「イカンテ」と猪肉を合わせ料理になかなかたどり着かぬ。次回以降をお楽しみに。

  


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2010年01月20日

山の神様に戴いた猪肉

[がんじいのジビエ手帖9 山の神様に戴いた猪肉]
 がんじいは、冬の間中、神楽に通っておる。
 11月の最終土曜から始まって、2月の第一日曜までが高千穂・椎葉・米良等の九州脊梁山地の夜神楽。2月から4月へかけては、宮崎平野・日南海岸沿いに分布する昼神楽。とくに、夜神楽は、一晩じゅう、寒空の下で見続けることになるので、体力・気力を必要とする。「がんじい=がんばるじじい」の面目をいかんなく発揮する場面なのじゃ。



 西米良村・村所神楽では、夜を徹して舞い続けられた神楽三十三番が終わった後、「シシトギリ」という演目がある。黒い仮面を着け、狩人に扮した演者が、山の神のお祓いを受けた後、古式の猪狩りの様子を再現するのである。
その「シシトギリ=狩法神事」の中に、七切れに切って串に刺した猪の肉(それに模した七切れの大根)を山の神に捧げる場面があるが、演技の最中に、狩人が山刀ではじき飛ばした大根のひと切れが、足もとまで飛んできて転がった。それで、その大根を思わず拾って、同じく傍に落ちていた御幣の切れ端に包んで「これを喰えば御利益があるかも・・・」とばかりにポケットに入れた。すると、それから五分も経たないうちに、本物の猪肉が手元に届いたので大層驚いたものじゃ。
 これには伏線がある。
 前夜、神楽が始まったばかりの時間帯に、旧知の村の女性から「色紙を書いて・・・」とリクエストがあった。が、神楽は佳境に入ったばかりだし、その夜は東京方面から多数の客を案内しており、その世話にも気を使ったりして、色紙は手つかずのまま、御神屋の筵の上に置かれ、折から降り始めた雪に濡れておった。そうしてようやく色紙を手にしたのは、明け方の「岩戸開き」が始まる頃であった。
 かじかむ手に息を吹きかけながら、豪快な手力男命の舞を仕上げ、人づてにその女性に届けたが、色紙は、朝までに女性の家に届いたらしく、早速、その礼にと、「シシトギリ」の場に猪肉が届けられたのじゃった。
 まるで、山の神からたちまち獲物を授かった図であった。
 その猪肉をじゅうじ農園の大根干し「イカンテ」と一緒に煮て喰った話は次号に。

   


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2010年01月08日

鹿肉シチュー変じて極上のカレーとなる

[がんじいのジビエ手帖8 鹿肉シチュー変じて極上のカレーとなる]
               
 暮れに作った鹿肉シチューは、東京方面から宮崎の神楽を見るためにやってきた一行にふるまった。がんじいの取材に同行を希望し、集まった人たちである。神楽の里でも、工夫を凝らした料理が出て、その心のこもったもてなしに、皆、感激するのであるが、まずは山入りの前の一夜を山里らしい料理で出迎えておこうという趣向である。手焼きのパンや年月をかけて仕込んだ「花酒」などを添えた食卓は、神楽のレクチャーと合わせて賑やかなものとなった。
 神楽から帰った晩は、十時間以上を眠り続ける。その間、眠りの中で神楽の音楽が鳴り続け、古代の神々や、宮崎の森の奥深くに座す「鬼」や「荒神」あるいは妖艶な「女面の神」などが現れては消える幻想世界の中を漂い続ける。この余韻もまた神楽の魅力の一つなのである。
 夜が明けると、翌日の昼ごろ目覚めると、シチューがまだたっぷりと残っておる。がんじいは、ここでたちまち元気を回復し、このシチューを極上のカレーへと変異させる作業を開始する。といっても、特別に変わった料理法を駆使するわけではない。新たに、ジャガイモと人参、玉葱を煮込み、それを残り物のカレーに混ぜ、あとはただのカレー粉を入れるだけ。カレー粉は、各自好みのものがあればそれにこしたことはないが、市販のカレールーでもよろしい。極上の鹿肉カレーの出来上がり。    


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2009年12月24日

 鹿肉シチューの作り方

[がんじいのジビエ手帖7 鹿肉シチューの作り方]
 鹿肉のシチューは絶品である。その美味さは世に知られていないように思われるので、ここに調理法を公開し、その真価を読者諸氏と共有したいと思う。



 先日、近所の農家から届いた鹿肉は、鋸で切り分けられて冷凍庫の中である。
 まず、朝のうちにそれを取り出し、解凍しておく。夕刻、やわらかくなった肉を骨から切り離しながら、細かく切り分ける。
 その肉をたっぷりと油を張ったフライパンで炒く。全体に火が通り肉汁が出始めたころ、火を止め、アクをとる(このアク取りに秘訣があるが、各自工夫のこと)。肉汁はキープしておくこと。
 次に、玉葱を四つ切りぐらいの大きさに切ったものを大鍋で炒める。この時、玉葱を焦がさないように注意をはらうこと。とろりと玉葱に透明感が出てきたころ、さきほど炒いた鹿肉と肉汁を入れ、ひたひたの水で煮込む。沸騰してきたころ、人参を加え、さらに煮込む。
 人参、玉葱などがよく煮えたころを見計らって、デミグラスソースとトマトピューレを加える。月桂樹(ローレル)の葉を二三枚、入れておく。部屋中に良い香りが漂い始める。
 塩で味を整える。この時点で、すでに食卓に乗せられるほど良い味が出ているが、火を止めて鍋を新聞紙で包み、さらにその上から毛布で包んで一晩寝かせる。ここがポイント。煮込み続けるのでなく、一晩寝かせることで肉はあくまでやわらかく、ソフトに仕上がるのである。
 翌日の夕刻、トマトと蕪を加え、ワインを少し落として30分ほど煮込めば、やさしく上品な味わい深い鹿肉シチューの出来上がり。



*今号から、「がんじいの料理帖」を「がんじいのジビエ手帖」に改題しました。再度の改題ですが、がんじいは、「星丘茶寮」で一世を風靡した魯山人のような天才美食家でもなく、「壇流クッキング」の壇一雄氏のように世界中を食べ歩いた食通でもなく、マンガの「美味しんぼ」や「クッキングパパ」のような極道でもなく、ましてや料理の修業をした専門家でもないので、「料理帖」という大上段に構えたタイトルでは実態にそぐわず、その道のプロに対しておこがましいと思っておったのです。「ジビエ」という表現は、ちょっとキザだが、もともと獣肉を食べる習慣のなかった日本人の食卓に牛肉・豚肉・鶏肉などが上るようになった明治以来、さらに野生獣の肉を食べる機会が減少し、「猟師」という職業が激減し、それにより野生獣が林業家や農家に被害を与えているという生態系の悪循環が起きていることを憂慮し続けていた折から、近年、ジビエというとらえ方で新しい食材としての見直しと食べ方が試みられ始めたことにささやかな可能性を見出しての改題なのです。食通の料理談義ではなく、仕留めた獲物をいかに美味く食べるか、という一点に絞った書き方になりますが、山菜やヤマメ、じゅうじ農園の収穫物などと合わせて書いてゆければと思っています。     


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2009年12月11日

ちょっと時期遅れのソバ刈り

[がんじいの料理帖7 ソバ掻きを食べたい]
 ひょっとしたら、誰からも忘れられていたのかもしれぬ。茶臼原台地の片隅の休耕田で、野の草に混じって可憐な白い花を咲かせていたソバは、いつの間にか黒い実を稔らせて、収穫の手が入るのを待っていたのである。
 12月初旬の茶臼原台地に霜が降り、時雨が米良の山脈を白く霞ませている。霜に焼かれて茎が萎れ、雨に打たれて実が地面に落ちたら、収穫の機会を逸してしまうのだ。冷たい雨がソバ畑をぬらす日、ようやく人出が揃って、時期遅れのソバ刈りが始まったのだった。

 

 ソバ刈りといえば、通常は鎌で茎の根元から刈り取り、持ち帰って10日間ほど乾燥させ、木の槌などで叩いて実を落とし、「箕」でゴミや枝葉などをふるい落として黒い実だけを貯蔵するのだが、今回は、刈り取る時に実が落ちてしまうおそれがあるほど刈り取り時期が遅れたので、手でしごいて収穫する方法をとることとした。手のひらで茎の下部を包みこみ、上方に向かってしごくと、手の中に実が残る。それをもう一方の手に持った籠や箱やビニールの袋などに入れて収穫するのだ。
 一本一本、手に茎を持ち、梳き取るように実を取り込んでゆく。雨が手や顔やソバの茎を濡らす。まるで縄文時代そのままの収穫風景ではないか。あるいは焼畑伝承にちなむ山姥そのものといえる姿ではないか。ソバの栽培にちなむ伝承は全国に分布していて、お産に立ち会った山姥から狩りの豊猟を約束された猟師の話や、子どもを食いに出てきた山姥を退治したら、その赤い血でソバの茎が染まったという話などがある。山の神信仰とソバの栽培、狩猟・焼畑耕作とは不可分の関係をもちながら、現代に至るまで伝承されてきたのである。



 ちなみに椎葉地方には今も焼畑を行う耕作者がおり、高千穂神楽には「五穀」という演目があって、五穀の神が米・粟・稗・豆・蕎麦(麦または玉蜀黍の場合もある)の五穀を持って荘厳な舞を舞う。
 今年収穫されたソバの実はわずかなものだったが、来年の種としては十分な分量であった。茶臼原自然芸術館建設資材として杉の木を切り出された森を焼き、育て、野草に混じって生育し、さらに雨や台風の襲来などによって蒔く時期も取り入れも遅れるという過酷な条件の中を生き抜いた、したたかなソバたちを来年こそは良い条件のもとで育ててあげたい。そして、挽きたての、あの香り高いソバガキなどを食べたいものだ、と思ったものである。
 すでに、粉ひき用の石臼は用意されており、準備は万端なのじゃ。
   


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2009年12月09日

鹿肉のシチューはいかが

[がんじいのジビエ手帖6 鹿肉のシチューはいかが]
 茶臼原自然芸術館にボランティアで参加して下さっているMさんから、鹿肉がどさりと届いた。畑の周りに張り巡らしておいた防護網にかかって暴れていたものを折りよく通りがかった知り合いの猟師に仕留めてもらったのだという。
 古来、鹿は、食用獣として人間に食われ続けた。石器時代の洞窟の壁画や殷・周の青銅器、各地の土器などに描かれた絵や文様の多様さがそれを物語っている。その美体と美味なる肉は、人間ばかりか、他の大型獣にも追われ続けた。鹿は、その立派な角を雌をめぐる雄同士の争いの場面にしか用いず、戦いの手段を持たない。追われて、風のように逃げるだけである。追いつめられた鹿は、そこに立ち尽くし、その澄んだ眼でじっと追っ手を見つめるだけである。その地球上でもっとも弱い動物の一種である鹿が、近年、異常に繁殖し、山林や田畑の作物を食い荒らし、現代日本の山村を消滅の危機に追い込んでいるのだから、皮肉なものである。


 届いた鹿肉は、前足の大腿骨辺りと思われた。大きな塊はすでに固く凍っていたので、鋸を持ち出し、自家の冷凍庫に入る大きさに切り分けた。この鹿は、猟師が仕留めた時、「乳が出た」と言っていたらしいから、子持ちの雌鹿だったらしい。骨と肉塊とを切り分ける時、ちょっと複雑な気持ちになったが、シチューに仕立てる楽しみが感傷を上回り、胸の痛みを忘れた。鹿肉のシチューは優しく上品な味がして絶品。
*鹿肉シチューの作り方は普通のシチューの作り方と大差ないが、ちょっとした秘訣がある。その詳細は次回に。
  


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2009年12月03日

野葡萄のみのる頃

[がんじいのジビエ手帖5 野葡萄のみのる頃] 
 じゅうじ農園の隣に櫟や栗、樫、杉、檜などが繁る混生林があって、午前中は、深々と耕された農地の上に、雑木林が濃い影を落としている。午後になると、陽射しは農園一杯にそそぎ、大地も暖かな茶褐色となって植えつけられた野菜を温める。その農地と雑木林との間、日陰と日なたとが交差する地点に、一本の大きな野葡萄の蔓が垂れ下っている。杉の大木に巻き付いた蔓の一端が中空へと伸び、その重みで下へと垂れて、また上へと伸びて行こうとする蔓などと絡まり合ったまま、実を付けているのだ。その一房を摘み取り、口に運ぶ。甘酸っぱい味と香りが口中に満ちる。
 がんじいにも青春と呼べる時期はあって、ある秋の日、麗しい美少女と二人で山を越えたことがある。その頃、すでに別のひとと暮らし始めていたのだから、この事態は世間の常識に照らせば不適当な関係に該当するかもしれないが、峠道で野葡萄の蔓を見つけた時に生じた衝動は、制御できない強さで若者の行動を促した。彼(すなわち若き日のがんじい)は、その一房を摘んで、彼女に与え、自らも口にした。彼の直感と予測によれば、二人はその直後には野葡萄を含んだ唇を寄せ合う段取りであった。ところが、彼の口中に広がったのは、爆発的な苦みと、辛味と悪臭の混じった衝撃であった。なんと、野葡萄の房には、あの、地上最強の悪臭を放つ昆虫「カメムシ」が含まれていたのだ。
 破局は、悪臭と苦くて甘酸っぱい味覚とともに、突然訪れたのである。



 野葡萄の房を丹念に摘み取り、ホワイトリカーに漬け込んでおくと、簡易の葡萄酒ができる。若き乙女が口に含み、壺や甕の中にに吐きだして蓄え、発酵させたものが最上の葡萄酒であり、古代の女性シャーマン(日本では卑弥呼や神功皇后など)が新穀(米)を噛み、醸して酒を造り、神に捧げた祭りが高千穂神楽の「酒濾しの舞」のような芸能と結びついた。森の古木の祠などに猿やリスなどが貯蔵しておいた木の実が発酵したものを「猿酒」という。
  


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2009年12月03日

泥つき大根を手土産に

[がんじいのジビエ手帖4 泥つき大根を手土産に]
 急に出かけることになり、福岡市の近郊にある知人の家に泊めていただくこととなった。出発間際の慌ただしい時間の中で、「じゅうじ農園」に立ち寄り、畑から引き抜いたばかりの大根、ほうれん草、水菜などをビニール袋に放り込んで、車に積み、出かけた。畑の縁の雑木林で熟れていた野葡萄の房を添え、この一包みの泥つき野菜たちを一宿一飯のささやかな御礼とした。近所に大型スーパーがあり、欲しいものは何でも手に入る都会の人が、ことのほか喜んでくれたのがうれしかった。

 その夜は、宿の主人の心づくしの料理をいただき、夏から秋へかけてのヤマメ釣りの手柄話に花を咲かせた。翌朝の食卓には、じゅうじ農園採れのほうれん草と水菜がサラダに添えられ、自家製のヨーグルトの上には、野葡萄の粒々が散らされていた。さわやかな野の風が吹きわたったような朝食であった。

   


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