2011年12月28日
がんじい「トロントロン軽トラ市」に行く
この冬一番という寒波が襲来し、南国宮崎・茶臼原の台地を霜が真っ白に化粧した朝、早起きをして川南町「トロントロン軽トラ市」に、がんじいも初めて参加した。「石井記念友愛社・茶臼原自然芸術館」の作品を展示・販売する日なのである。
この軽妙な名称を持つ市場は、宮崎県川南町の中心商店街の中央を貫く道路を車両進入禁止区域とし、そこに農家や漁業の人たちや近隣の工芸作家、手づくり食品の造り手たちなどが、それぞれ軽トラックを持ち込んで、その荷台を屋台のごとくに利用して、様々な物産の販売を行なうという、まことに痛快な企画である。
昨日まで人っ子いなかったように思える寂れた古い町並みに、ある朝突然、軽トラックと人と物とがあふれ、アジアのバザールのような大いなる賑わいを見せる通りに変貌する。その活気あふれる現場に踏み込む前に、川南町の沿革とその名称の由来となった、「トロントロン」という地名について検証しておこう。
川南町は、宮崎県のほぼ中央部の海岸部に位置し、東は日向灘・太平洋、西は若山牧水が望郷の思いをこめて歌った尾鈴山系の山々を望む、人口約1万7,000人の町である。宮崎市から国道10号線を北へ約1時間、電車で約40分の距離にある。広大な台地状の平地が広がり、農畜産、漁業を基幹産業とする。第二次大戦後、軍用地であったこの広大な台地は解放され、全国から開拓者たちが入植、発展を遂げ、中心部には商店街も形成されて、商工業も拡大を続けてきた。しかしながら、全国的な中心商店街衰退の波はここも例外なく襲い、バブル崩壊、その後の大幅な規制緩和による中・大型店の地方への進出ラッシュ等により商工業は衰退した。農畜産業も輸入が拡大し価格が下落、農家はも多頭化による経営改善を余儀なくされ、苦戦が続いているという。
この軽トラ市が開催される川南町の中心部トロントロンという地名は、尾鈴山系を源とする名貫川と小丸川に挟まれたこの地域が、古来、小滝や伏流水の湧き出る場所が多く、その水音が辺り一帯や街道脇の並木道に反響したことから付いたとする説が有力である。町を貫く道は、中世以降、日向と豊後を結ぶ主要な街道として栄え、ゆるやかな坂道には松・杉・楠などの並木が涼しい木陰を作っていたという。このトロントロンという地名については「とろとろと上り下りするゆるやかな坂道」説など、他にもいくつかの説があるが、街道を行き交う人々の耳に響いた水音がその地名の起源だとすれば大変懐かしく、奥ゆかしい地名である。ちなみに宮崎県には穏やかな内湾の水音が優しい延岡市土々呂(ととろ)漁港があり、美郷町北郷区を貫流する五十鈴川の「轟(とどろ)の滝」の他、小さな小滝を轟滝、あるいは轟の淵などと呼ぶと呼ぶ例もあって、水音と「トトロ」「トロントロン」の関連を想起させる。
さて、このトロントロンという名の坂道で軽トラ市が始まったのは、四年前(平成18年)のことである。当初は軽トラック60台余りの参加だったが、年々話題を呼び、昨年(2010年)口蹄疫発生の折にはその中心地であったことから、半年間開催を自粛したが、その後、再開し、現在は参加軽トラック100台以上、来客は一万人を越える地域イベントとして活況を呈しているのである。
茶臼原自然芸術館が参加したのは、今年(2011年)の春から。現地のお菓子屋さんとの共同出展という形で実現した。以後、毎月第四日曜の開催日に毎回出店し、好評を得ているのである。
この日は、寒い日だったから、草木染め手織りのマフラーを主に展示した。まず軽トラ横のスペースに張られたテントの前面のマネキンの首にマフラーを巻き、テントから軽トラの荷台の上部に紐を張ってそれにシルクのマフラーを下げた。ゆるやかな風にマフラーが翻り、朝日が草木染めの色を照らし始めた時、すぐに二枚のマフラーが売れた。野天での企画の折の状況判断は、戦場における武将あるいは軍師のそれのように、機微詳細を極めたものでなければならぬ。今日の出足は好調であった。
*続きは次回。
この軽妙な名称を持つ市場は、宮崎県川南町の中心商店街の中央を貫く道路を車両進入禁止区域とし、そこに農家や漁業の人たちや近隣の工芸作家、手づくり食品の造り手たちなどが、それぞれ軽トラックを持ち込んで、その荷台を屋台のごとくに利用して、様々な物産の販売を行なうという、まことに痛快な企画である。
昨日まで人っ子いなかったように思える寂れた古い町並みに、ある朝突然、軽トラックと人と物とがあふれ、アジアのバザールのような大いなる賑わいを見せる通りに変貌する。その活気あふれる現場に踏み込む前に、川南町の沿革とその名称の由来となった、「トロントロン」という地名について検証しておこう。
川南町は、宮崎県のほぼ中央部の海岸部に位置し、東は日向灘・太平洋、西は若山牧水が望郷の思いをこめて歌った尾鈴山系の山々を望む、人口約1万7,000人の町である。宮崎市から国道10号線を北へ約1時間、電車で約40分の距離にある。広大な台地状の平地が広がり、農畜産、漁業を基幹産業とする。第二次大戦後、軍用地であったこの広大な台地は解放され、全国から開拓者たちが入植、発展を遂げ、中心部には商店街も形成されて、商工業も拡大を続けてきた。しかしながら、全国的な中心商店街衰退の波はここも例外なく襲い、バブル崩壊、その後の大幅な規制緩和による中・大型店の地方への進出ラッシュ等により商工業は衰退した。農畜産業も輸入が拡大し価格が下落、農家はも多頭化による経営改善を余儀なくされ、苦戦が続いているという。
この軽トラ市が開催される川南町の中心部トロントロンという地名は、尾鈴山系を源とする名貫川と小丸川に挟まれたこの地域が、古来、小滝や伏流水の湧き出る場所が多く、その水音が辺り一帯や街道脇の並木道に反響したことから付いたとする説が有力である。町を貫く道は、中世以降、日向と豊後を結ぶ主要な街道として栄え、ゆるやかな坂道には松・杉・楠などの並木が涼しい木陰を作っていたという。このトロントロンという地名については「とろとろと上り下りするゆるやかな坂道」説など、他にもいくつかの説があるが、街道を行き交う人々の耳に響いた水音がその地名の起源だとすれば大変懐かしく、奥ゆかしい地名である。ちなみに宮崎県には穏やかな内湾の水音が優しい延岡市土々呂(ととろ)漁港があり、美郷町北郷区を貫流する五十鈴川の「轟(とどろ)の滝」の他、小さな小滝を轟滝、あるいは轟の淵などと呼ぶと呼ぶ例もあって、水音と「トトロ」「トロントロン」の関連を想起させる。
さて、このトロントロンという名の坂道で軽トラ市が始まったのは、四年前(平成18年)のことである。当初は軽トラック60台余りの参加だったが、年々話題を呼び、昨年(2010年)口蹄疫発生の折にはその中心地であったことから、半年間開催を自粛したが、その後、再開し、現在は参加軽トラック100台以上、来客は一万人を越える地域イベントとして活況を呈しているのである。
茶臼原自然芸術館が参加したのは、今年(2011年)の春から。現地のお菓子屋さんとの共同出展という形で実現した。以後、毎月第四日曜の開催日に毎回出店し、好評を得ているのである。
この日は、寒い日だったから、草木染め手織りのマフラーを主に展示した。まず軽トラ横のスペースに張られたテントの前面のマネキンの首にマフラーを巻き、テントから軽トラの荷台の上部に紐を張ってそれにシルクのマフラーを下げた。ゆるやかな風にマフラーが翻り、朝日が草木染めの色を照らし始めた時、すぐに二枚のマフラーが売れた。野天での企画の折の状況判断は、戦場における武将あるいは軍師のそれのように、機微詳細を極めたものでなければならぬ。今日の出足は好調であった。
*続きは次回。
2011年12月22日
友愛社の大銀杏 モーちゃんのフォト日記24
友愛社の玄関の横に大きな銀杏の木があります。
もう葉っぱは落ちてしまいましたが、
一枚だけ、クモの糸に引っ掛かって、
ゆらゆらと揺れている葉がありました。
この大銀杏は、「松本圭一銀杏」という名がつけられています。
松本圭一氏は明治19年生まれ。仙台の旧制二高在学中にキリスト教に入信。
ちょうどのそのころ、東北大飢饉が起こり、多くの孤児が石井十次の設立した
東北育児院に預けられたことを知ります。
その後、東京帝国大学農学科を卒業し、茶臼原の孤児院を訪ね、十次と面会。
十次死亡の年、茶臼原孤児院の職員となり、農場学校を開校するが、当時の
日本政府の小作農業者に対する見解に反発し、弾圧を受けたことから
茶臼原孤児院出身者などを連れてブラジルに移住し、農業指導をはじめ多くの実績を残します。
大銀杏は松本が茶臼原を去る時に植えたものです。
100年の時を刻んで、大銀杏は友愛社の庭に美しい影絵を描いているのです。
2011年12月21日
2011年12月16日
モーちゃんです おひさしぶりです 木綿の大作を織りました
木綿の縦じまの作品が織り上がりました。
古い絣織りの工房が閉じられて、糸をたくさん譲ってもらったのを
織り込んだのです。
縞の模様も美しく、手ざわりもふわりとやわらかです。
うれしくて、ひさしぶりにカメラを持って、芸術館の前の斜面で撮影をしました。
北の国では雪がふっているそうです。
南国宮崎は、いまが紅葉が散りはじめたところです。
落ち葉を明るい日差しがてらしていました。
2011年12月15日
ガマズミの染色
ガマズミの染色
古い染色の資料を見ていたら、「ズミ」という染料名が見つかった。それで、調べていたら、「ガマズミ」に遭遇した。「ズミ」と「ガマズミ」はたぶん異なる樹木だろうが、取り急ぎ、「ガマズミ」で染めてみることにした。というのは、近くの林の縁で、ガマズミの紅葉が始まっているのを通りがかりに見たばかりだったからである。
ガマズミは、初秋、小さな赤い宝石のような実を付ける。そのつややかな実を、子供の頃、山道を歩いて帰りながら、摘み取って食べた記憶がある。酸味の強いその実が、じつは疲労回復に効用があり、東北地方では、昔、マタギが用いたという伝承がある。山の子たちは、きわめて自然にそのことを知っていたのだろう。
「ガマズミ」の語源には諸説あるが、その幹または枝が固く柔軟性があることから鎌の柄や玄能の柄に用いられ、その実の酸っぱいことから「鎌柄―酸い実」が縮まったとする説が有力だろう。実際、東北地方ではこのガマズミのことを「ジョミ」「ゾミ」などと呼ぶらしいから、整合性がある。「染め―スミ」説は、一般的かつ具体的な染色の記録が見つからず、説得力を欠く。
この酸っぱい実を、ホワイトリカーに浸けこむと果実酒ができるし、ジュースにしても美味いらしい。
□採集してきたガマズミの葉を細かく千切り、水洗いして約30分煮沸。
□黄褐色の煎液が得られた。
□煎液を濾して布を浸す。10分ほどで薄い黄色に染まった。
□その状態で約15分煮沸し、媒染剤(銅)を入れた水に浸して染める。
□やわらかな色調の柿茶に染まった。少し時期遅れかもしれないと心配したが、思いがけない発色である。
古名の「薄柿」または「洒落柿」に近い色。「洒落柿」とは下染めを梅で染め、その上に石灰を水で溶いて浸けておくと、梅の上色の赤味が抜けて熟した柿の実のような色になることから名付けられたという。シルクのマフラーは、柿の実の色というより、湯上りの若い女性の肌の色を連想させた。
古い染色の資料を見ていたら、「ズミ」という染料名が見つかった。それで、調べていたら、「ガマズミ」に遭遇した。「ズミ」と「ガマズミ」はたぶん異なる樹木だろうが、取り急ぎ、「ガマズミ」で染めてみることにした。というのは、近くの林の縁で、ガマズミの紅葉が始まっているのを通りがかりに見たばかりだったからである。
ガマズミは、初秋、小さな赤い宝石のような実を付ける。そのつややかな実を、子供の頃、山道を歩いて帰りながら、摘み取って食べた記憶がある。酸味の強いその実が、じつは疲労回復に効用があり、東北地方では、昔、マタギが用いたという伝承がある。山の子たちは、きわめて自然にそのことを知っていたのだろう。
「ガマズミ」の語源には諸説あるが、その幹または枝が固く柔軟性があることから鎌の柄や玄能の柄に用いられ、その実の酸っぱいことから「鎌柄―酸い実」が縮まったとする説が有力だろう。実際、東北地方ではこのガマズミのことを「ジョミ」「ゾミ」などと呼ぶらしいから、整合性がある。「染め―スミ」説は、一般的かつ具体的な染色の記録が見つからず、説得力を欠く。
この酸っぱい実を、ホワイトリカーに浸けこむと果実酒ができるし、ジュースにしても美味いらしい。
□採集してきたガマズミの葉を細かく千切り、水洗いして約30分煮沸。
□黄褐色の煎液が得られた。
□煎液を濾して布を浸す。10分ほどで薄い黄色に染まった。
□その状態で約15分煮沸し、媒染剤(銅)を入れた水に浸して染める。
□やわらかな色調の柿茶に染まった。少し時期遅れかもしれないと心配したが、思いがけない発色である。
古名の「薄柿」または「洒落柿」に近い色。「洒落柿」とは下染めを梅で染め、その上に石灰を水で溶いて浸けておくと、梅の上色の赤味が抜けて熟した柿の実のような色になることから名付けられたという。シルクのマフラーは、柿の実の色というより、湯上りの若い女性の肌の色を連想させた。
2011年12月15日
タブノキで銀鼠色が染まった
タブノキ(﨓)の染色
森へ行く道に大きく差し出て、行く手をふさいでいたタブノキを一本、切り倒した。一本の樹幹から枝分かれしたものが、それぞれ独立して、株立ちのように枝葉を繁らせ、小さな樹林を形成しているのである。
タブノキは、楠や樫、椎などともに照葉樹林を代表する樹木で、大木になる。楠に似た微香がある。
タブノキは、八丈島では「黄八丈」の染料として使用される。椿の灰汁媒染で「鳶色」が染まるという。
八丈島では樹皮を用いるが、今回は、葉と小枝を使い、鉄媒染でシルクストール、シルクマフラー、綿麻パンツを染めた。
□まずは葉と小枝を細かく千切り、水洗いして約1時間煮沸。シナモンの香りが工房一杯に満ちた。
□暗褐色の煎液が得られた。
□布地を水洗いし、煎液に入れ、約30分煮沸。この時点では色の変化は出ない。
□媒染剤の入った水に布地を入れ、染める。約15分浸けておくと、銀鼠色に染まった。
さらに約5分、タブノキの染液に浸けて染め重ね。
・綿麻パンツは深いグレイ
・シルクストールは赤紫がかったグレイ
・シルクストールをアカソの残液で染め重ねると濃い緑灰色
・シルクマフラーをタブノキの染液一回染めで淡い緑灰色
にそれぞれ染まった。森の中ではあまり目立たない樹種だが貴重な染料である。
さて、このグレイは日本の伝統色でいう「銀鼠(ぎんねず)」に近い色調である。
掲載写真は染めあがった直後だが、秋の陽に干して乾くと、白銀のような落ち着いた
薄鼠色になったのである。
森へ行く道に大きく差し出て、行く手をふさいでいたタブノキを一本、切り倒した。一本の樹幹から枝分かれしたものが、それぞれ独立して、株立ちのように枝葉を繁らせ、小さな樹林を形成しているのである。
タブノキは、楠や樫、椎などともに照葉樹林を代表する樹木で、大木になる。楠に似た微香がある。
タブノキは、八丈島では「黄八丈」の染料として使用される。椿の灰汁媒染で「鳶色」が染まるという。
八丈島では樹皮を用いるが、今回は、葉と小枝を使い、鉄媒染でシルクストール、シルクマフラー、綿麻パンツを染めた。
□まずは葉と小枝を細かく千切り、水洗いして約1時間煮沸。シナモンの香りが工房一杯に満ちた。
□暗褐色の煎液が得られた。
□布地を水洗いし、煎液に入れ、約30分煮沸。この時点では色の変化は出ない。
□媒染剤の入った水に布地を入れ、染める。約15分浸けておくと、銀鼠色に染まった。
さらに約5分、タブノキの染液に浸けて染め重ね。
・綿麻パンツは深いグレイ
・シルクストールは赤紫がかったグレイ
・シルクストールをアカソの残液で染め重ねると濃い緑灰色
・シルクマフラーをタブノキの染液一回染めで淡い緑灰色
にそれぞれ染まった。森の中ではあまり目立たない樹種だが貴重な染料である。
さて、このグレイは日本の伝統色でいう「銀鼠(ぎんねず)」に近い色調である。
掲載写真は染めあがった直後だが、秋の陽に干して乾くと、白銀のような落ち着いた
薄鼠色になったのである。
2011年12月07日
アカソ(赤麻)の染色
ヤマメを追って、深い谷を遡上している時、渓流沿いの崖や山道の脇の岩場などに
アカソの赤い茎が目につく。アカソはその名の由来が語るように、
赤い葉茎を持つ多年草で、イラクサやヤブマオの仲間である。
夏に使い古した筆の穂先のような淡黄色の花を付ける。
この時期に刈り取り、染める。
晩夏の一日、
小丸川沿の道を遡り、木城町石河内の道沿いの崖でにアカソの群生を確認。
この日は良い具合に道路わきの空き地に群生が見つかったので、採集。
採集してきたアカソは水洗いして細かく千切り、薬30分煮沸する。
黒褐色の煎液が得られた。煎液を別の容器に取り分ける。
布地を入れて薬30分煮沸。布はこの時点では黄色っぽい茶色に。
布地を水洗いし、媒染剤(鉄)を入れた水に入れ、染める。
このまま15分ほど浸けておく。
・今回はシルクストールの鉄媒染で緑がかったグレイ
・オーガニックコットンの鉄媒染で黄味を帯びたオリーブグリーン
・シルクコースターの椿灰汁媒染で深緑
が染まった。
*古代の色名でみると、グレイは「利休鼠(りきゅうねず)」と「青鈍(あおにび)」
の中間あたりに位置する色だと確認された。青鈍は樫の樹皮または椎柴の
鉄媒染による色だが、利休鼠とは特定の染色法によるのではなく、江戸期の
商人による「粋好み」の命名であるということ。このアカソの灰色は、赤味を帯びた
紫がかっているから、独特の色ともいえる。
*アカソの染液を3時間から半日ほど置くと、酸化して絹がピンクが染まるという。
次回の楽しみである。